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東京地方裁判所 昭和53年(ワ)904号 判決

原告 籠谷妙子

右訴訟代理人弁護士 田山勝久

被告 藤宮慶礼こと 鄭慶礼

被告 光町

右代表者町長 馬場幸太郎

右訴訟代理人弁護士 中村作次郎

主文

原告の請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  原告

1  被告らは、各自、原告に対し、金二六〇〇万円及びこれに対する被告鄭慶礼(以下「被告鄭」という。)は昭和五三年七月二八日から、被告光町は同年二月一〇日から各支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの連帯負担とする。

3  仮執行の宣言

二  被告光町

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求の原因

1  当事者

(一) 亡鈴木幹夫(以下「幹夫」という。)は、昭和二〇年一月二七日原告の婚姻外の子として出生した原告の実子である。原告は、その後籠谷勇と結婚し、夫の氏を称している。

(二) 被告鄭は、最後の住所地で鋼鉄商を営んでいたと同時に、千葉県匝瑳郡光町木戸浜海岸において海の家「藤の家」を開設し、その営業をしていたものである。

(三) 被告光町は、右木戸浜海岸において海水浴場を開設し(以下「本件海水浴場」という。)、これを管理していたものである。

2  本件事故

亡幹夫は、昭和五二年七月二一日「藤の家」に来た海水浴客を案内して、午前中より、本件海水浴場の海岸から約五〇メートルないし一〇〇メートル位の沖合の浅瀬に入り、約四・五キログラム位の蛤を採取して帰る途中、同日午後零時一五分ころ、海岸から約三〇メートル程離れた附近で、腰から膝位の浅瀬から突然二、三メートルの深みにはまり溺れ、近くで遊泳中の中学生の知らせで急拠かけつけた救助隊の援助で陸に引き揚げられたが、結局同日二時死亡するに至った。その死因は、溺死であった。

3  被告鄭の責任

亡幹夫は、昭和五二年初めころから被告鄭に雇用され、その営業に従事していたが、同年三月初めころから前記海の家「藤の家」の開設のためその建築及び開設準備に従事し、同年七月一日ころ右海の家が開業されると同時に海水浴客の接待業務に従事し、客を案内してその販売に係る蛤の採取にも従事していた。

ところで、蛤のとれる本件海水浴場は、一般的には遠浅であるが、潮の流れによっては、本件事故発生場所のように海岸からわずか三〇メートル位のところにも二、三メートルに及ぶ深みができて非常に危険な区域もあるのであるから、雇主である被告鄭としては、従業員を本件海水浴場で蛤採取等の業務に従事させるにあたっては、未然に事故の発生を防止するため、いかなる場所にかかる危険な個所があるかを事前に調査しその他安全を確認したうえでその業務に従事させるべき雇用契約又は不法行為法上の安全確認義務ないし危険防止義務があるにもかかわらず、右義務に違反し何らの措置もとらず漫然幹夫を右業務に従事させた結果本件事故が発生したものであって、被告鄭には雇用契約上の義務違反ないし不法行為法上の過失がある。

よって、被告鄭は、右の雇用契約上の債務不履行又は不法行為により生じた損害を賠償する義務がある。

4  被告光町の責任

(一) 被告光町は、本件海水浴場の開設期間中である昭和五二年七月一一日から同年八月二二日までの間、監視所を三か所設置し、五名の監視員を雇い、海水浴客その他入水者等の事故発生防止及び安全確保にあたっていた。

しかるに、本件事故発生時である昭和五二年七月二一日午後零時一五分ころ、右三か所の監視員は、交替で食事をとるなどして監視員としての職務を常時尽すべき義務があるにもかかわらず、全員昼食のために監視所を離れ監視を怠っていたため、幹夫が海岸からわずか三〇メートル位のところで溺れていたのを発見し迅速に救助活動をすることができず、最初に発見した近くで遊泳中の中学生が急拠浜に上り他の大人達に知らせ幹夫を救助したときは手遅れとなって、同人を同日午後二時ころ死亡させるに至ったものである。

したがって、被告光町は、右監視員が職務を怠った過失により生じた損害について、民法七一五条により使用者としてこれを賠償する義務がある。

(二) 仮に右主張が理由がないとしても、本件海水浴場の近くの浜辺で蛤を採取するときは、それを職業としている者はもちろん、その他一般の人でも、通常「蛤カッター」と称する長さ二メートル位の木の柄のついた熊手様の道具を持ち、これを杖のようにして海の深さを測りその安全を確かめながら歩行するとともに万一本件のような事故にあったときでもそれを支えとして安全を保つようにしていたものであるところ、幹夫が本件事故当日右の道具をもって海に入ろうとしたところ、被告光町に雇用されていた監視員が不法にもこれを制止したため、幹夫はやむをえずこれを持たずに海に入ったもので、そのため安全の確保ができず本件事故に会ったものであるから、このような監視員の故意又は重大な過失に基づく行為によって生じた損害について、被告光町は、民法七一五条により使用者として損害を賠償する義務がある。

(三) 仮に右(一)、(二)の請求が理由がないとしても、本件海水浴場には、海岸からわずか三〇メートル位しか離れていない地点であっても、二、三メートルにも及ぶ急に深くなっている部分があって、膝や腰位の浅瀬と思って安心して遊泳している海水浴客に対し不測の事態を生じさせる危険な区域があるのであるから、このような海水浴場を管理する被告光町の職員は、その危険箇所を知らせる危険ブイやロープを張るなどの方法を講じて事故の発生を未然に防止すべき危険防止義務があるにもかかわらず何らの措置もとらず本件事故を発生させたものであり、したがって、被告光町は、国家賠償法一条に基づき損害賠償義務がある。

5  原告の損害

(一) 亡幹夫の逸失利益 金二〇〇〇万円

亡幹夫は、死亡当時三二才の健康な成人男子であった。被告鄭のところに勤務する前の勤務先である家屋解体業高久賢のところでは、同人は、食事付日当七〇〇〇円を得ていたので、一か月二五日の稼働があったものとして一か月の収入は一七万五〇〇〇円となり、そして、五〇パーセントの生活費を控除すると一か月に得る利益は八万七五〇〇円となる。それに三二才の就労可能年数三五年の新ホフマン係数は、一九・九一七であるから、これにより計算すると、幹夫の死亡による逸失利益は、二〇九一万二八五〇円となる。亡幹夫は、右逸失利益と同額の損害賠償請求権を有するところ、原告は、これを相続により取得したものであり、このうち金二〇〇〇万円を請求する。

(二) 慰藉料 六〇〇万円

亡幹夫は、原告の一人息子であり、唯一の心のよりどころであったが、その死亡による原告のショックは言葉では言い表わせない程のものであった。したがって、その精神的損害を慰藉するには金六〇〇万円が相当である。

6  請求

よって、原告は、被告らに対し、連帯して、損害賠償金二六〇〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である被告鄭については昭和五三年七月二八日から、被告光町については同年二月一〇日から、各支払いずみまで、民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  被告鄭

公示送達による呼出を受けたが、答弁書その他の準備書面を提出しない。

三  被告光町の答弁及び主張

1  当事者について

請求の原因第1項の(一)の事実は、知らない。

同(二)の事実中、被告鄭が最後の住所地で鋼鉄商を営んでいたことは知らないが、その余の事実は認める。

同(三)の事実は、認める。

2  本件事故について

請求原因第2項の事実中、亡幹夫が、昭和五二年七月二一日本件海水浴場の浅瀬に入り蛤を採取して帰える途中溺れ、近くで遊泳していた中学生の知らせで急拠かけつけた救助隊の援助で陸に引き揚げられたが、結局同日午後二時死亡するに至ったことは認めるが、死因が溺死であることは否認し、その余の事実は知らない。

3  被告光町の責任について

(一) 認否

請求の原因第4項の(一)の事実のうち、被告光町が、昭和五二年七月一七日(一一日ではない。)から八月二二日までの本件海水浴場開設期間中、監視所三か所を設置し、五名の監視員を雇い、海水浴客その他入水者等の事故発生防止及び安全確保にあたっていたこと及び幹夫が溺れたのを発見した近くで遊泳中の中学生の知らせで幹夫を救助したが同日二時に同人が死亡したことは認めるが、幹夫が溺れた位置は不知、その余は否認する。

同(二)は争う。

同(三)は争う。

(二) 主張

(1) 本件事故当時、本件海水浴場には、監視員として五名が配置されていたが、交替で昼食をとるため、右五名のうち三名が現場を離れ、二名が残って監視にあたっていた。当時は、海水浴客の多数も昼食をとるため海から上っていたので、右二名の監視員で通常の監視行為が可能であったところ、亡幹夫は、深みにはまり一瞬のうちに水中に没しそのまま浮び上ってこなかったため、監視員の目にとまらずたまたま一中学生だけがこれを目撃したものであって、本件事故については、監視員の職務怠慢又は過失はなく、したがって、被告光町の損害賠償責任は生じない。

(2) 「蛤カッター」は本職の熟達者でなければ使いこなせないものであって、水泳の熟達者であってもそれを持って海に入ることは危険であるから、酒に酔っていた幹夫に対し監視員がその携行を制止したのは当然の措置であって、監視員になんらの過失はなく、したがって被告光町の賠償責任は生じない。

(3) 本件海水浴場開設中は、毎日、被告光町の産業課職員が管理事務所に常駐し、管理運営一般の業務に従事していた。

ところで、本件海水浴場付近には、海岸線に対し、ほぼ直角に近く走る「みお」があり、この箇所は深くなっていて危険なので、これを海水浴場の区域外とするためと、他方監視員の監視が行き届く範囲内に区域を定めるために、海面を約二〇〇メートルの幅に区切ってロープを張り、これにブイを固定して、海水浴客が海水浴場の区域を明確に識別することができるようにしてある。本件事故が発生した深みは、地元で俗にいう「うたり」と呼ぶもので海岸線に向って寄せてくる波によって生成され、海岸線に対しほぼ平行に位置してできる。これは、「みお」のように、その位置、大きさ、深さ等がだいたいにおいて固定しているというものではなく、その日その時の波の状態によって、異なった位置、大きさ、深さとなって生ずる。この「うたり」の深さは、あげ潮となりそれに波の高さが加って二メートルを超える場合もある。

本件海水浴場は、監視員によって泳ぎのできない者、未熟な者が個別的に見分けられる程度の数の海水浴客に利用されている常態なので、右「うたり」の深さが増大し、また、これに加えて波が高く、泳ぎのできない者や未熟な者がこれに近ずくと危険な状態になると、遅滞なく監視員がスピーカーで危険を告げ、安全な場所に誘導し、時にはサイレンを鳴らして一般に注意することにしており、万一溺れそうになった人があっても、その都度監視員に発見され救助されている。

したがって、利用者の安全確保のため被告光町の職員が講じていた管理には欠陥がなかったものというべきである。

4  損害について

請求原因第5項の事実は、すべて争う。

四  被告光町の抗弁

(1)  亡幹夫は毎日朝から酒を飲んでいる程の酒好きであったが、酒気を帯びて海に入ることは危険なことであるからこれを避けるべきであるにもかかわらず、幹夫は、本件事故当日も飲酒して海に入って本件事故を起こしたものであり、このことは、同人の重大な過失である。

(2)  また、蛤の採取をする場合、採取した蛤を入れた袋は肩にかけるなど危険な際に何時でも投げ捨てられるようにしておかなければならないにもかかわらず、本件事故当時、幹夫は五キログラム以上蛤の入った袋をビニールのひもでしっかり腰にしばりつけて容易にそのひもをほどくことができない状態にしこれを何時でも身体から離脱させることができるような用意を怠っていたものであって、そのため、その重みで「うたり」の深みに沈んで浮き上ることができなかったものである。このことも、幹夫の重大な過失である。

(3)  本件事故の発生は、右のような亡幹夫の一方的な過失に基づくものであるが、仮に被告光町に損害賠償責任があるものとすれば、過失相殺を主張する。なお、亡幹夫の過失は極めて大きなものであるから、その額は全額に及び、被告光町の責任は零となるべきものである。

五  抗弁に対する答弁

抗弁事実は否認する。

第三証拠《省略》

理由

一  本件事故について

(一)  亡幹夫が、昭和五二年七月二一日本件海水浴場の浅瀬に入り蛤を採取して帰る途中溺れ(水中に沈んだという趣旨と解する。)、近くで遊泳していた中学生の知らせで急拠かけつけた救助隊の援助で陸に引き揚げられたが、結局同日午後二時死亡するに至ったことは原告と被告光町との間に争がない。右争のない事実に《証拠省略》を総合すれば、被告両名との関係で次の事実を認めることができる。

(1)  亡幹夫は、被告鄭の経営する海の家「藤の家」に来た海水浴客二名を案内して同僚の池田好一とともに昭和五二年七月二一日の昼前(後記三の(二)認定のように、監視員の仲村が昼食をとるため監視所から下り水際で体を洗っていた際に亡幹夫が海に入るのに出会っている事実からみて正午に近い時間であったものと推認される。)蛤を採取するため、本件海水浴場の海中に入った。

(2)  本件海水浴場のある海岸では海岸にほぼ直角に「みお」と称する溝ができ、ここでは、沖合に向って激しい潮の流れが生じて危険なため、本件海水浴場では、「みお」のできた部分を避けて海面を約二〇〇メートルの幅に区切って海岸と直角にロープを張り、これにブイを固定して、海水浴場の区域を明確にしてあった。また、本件海水浴場を含む九十九里の海岸では潮流の関係で海岸から約一〇メートル位の沖合から海岸線とほぼ平行に幅約三〇メートル位の「うたり」と称する溝状のやや深い部分ができるが、これは、「みお」のように、その位置、大きさ、深さがほぼ一定しているというものではなく、その日その時の潮流、波の状態により、異なった位置、大きさ、深さとなって生ずるものであって、あげ潮となりそれに波の高さも加わると深さが二メートルを超える場所もできる。そこで、本件海水浴場は、一般的には遠浅というべきであるが、海岸から沖合に向って一〇メートル位までは膝から腰位までの深さの浅瀬で、それから約三〇メートル位の幅で満潮時には最高約二メートル位の深さにもなるいわゆる「うたり」の部分があり、更に沖合に行くに従ってまた腰位の深さの浅瀬となっている。

(3)  亡幹夫らは、「うたり」の部分を越えた海岸から五〇メートル位沖合の腰位の深さの浅瀬で蛤を採取していたが、幹夫はその附近で遊んでいた中学生ら四、五名から同人らが採取した蛤をもらい、あわせて約四・五キログラム位を袋に入れこれを、ビニールのひもで腰にかたくしばりつけていた。間もなく海水浴客と池田は先に帰り、中学生らも帰りかけたので、同日零時一五分ころ、幹夫も帰ることとして、中学生らより先に海岸の方向に向かった。幹夫が海岸から約三〇メートル位の「うたり」のある地点にさしかかったところ、その附近では深さが同人の首位までに達し、同人は水泳に熟達していたが、波が押し寄せてくると同人の頭が水中に没するほどであった。そこであとから追いついた中学生の一人海保勝則が「大丈夫ですか」と幹夫に声をかけたところ、「大丈夫だ」との返事があった。海保はそのまま幹夫を追越してしばらくして(この間はわずかの間と推認される。)振り返ったところ、幹夫の姿がみえなかったので、急いで海岸に上がり、海の家「魚喜」で食事をとろうとしていた監視員らに幹夫の姿がみえなくなったことを告げた。

(3)  右急報を受けた監視員らは、直ちに海岸にかけつけ、幹夫の水没した地点附近の海中に潜ったり竿で突いたりして幹夫を探したが、その姿を発見することができず、「かつぎこみ」と称する地引用の網を張って約一時間後に幹夫の体を引き揚げ、直ちに砂浜で人工呼吸を施したが、息を吹き返すこともなく(息を吹き返した旨の《証拠省略》は《証拠省略》に照らして誤りであると認められるし、また、同旨の《証拠省略》も単に伝聞にすぎないものであり、前掲各証言に照らし信用することができない。)、同日午後二時ころ、東陽病院の越田勇夫医師により死亡の診断が下されるにいたった。

(二)  幹夫の死因については、《証拠省略》によれば、東陽病院の越田勇夫医師により「溺死」と診断されていることが認められる。

ところで、「溺死」とは、水その他の液体により呼吸気道が閉塞されておこる窒息死であるが、寒冷な水の皮膚刺戟又は喉頭部粘膜、上喉頭神経の刺戟による反射的な心臓停止による死亡も外表所見では判定が困難なため「溺死」として取り扱われることがあり、正確に「溺死」かどうかを判定するには、解剖により、肺、血液、臓器中からプランクトンを検出することにより行う必要があるものであることは、経験則として当裁判所に顕著な事実である(平凡社・世界大百科辞典一五巻五二九頁、南山堂・医学大辞典一〇五六頁等参照)。

《証拠省略》によれば、幹夫の遺体は解剖に付されなかったものと認められるから、前記の越田医師の診断は単に外表所見及び死亡の際の状況から判定したもので厳密な医学的検査によったものではないと推認される。そして、前記(一)認定の事実により認められる幹夫が水泳に熟達していたにもかかわらず附近に居た中学生が短時間のうちにその姿を見失っていること及び《証拠省略》により認められる幹夫に対し人工呼吸を施した際ほとんど水を吐かなかったこと(溺死の場合には多量の水を飲んでいるのが通常と考えられる。)等の事実に照らせば、幹夫の死因は、前記越田医師の診断にかかわらず、心臓麻痺によるものではないかとの疑が濃いものと考えられるが、同人の死因については明確には断定することができない。しかし、いずれにしても、幹夫は救助を求めることなく短時間のうちに水中に没し死亡したものと認めるのが相当である。

二  被告鄭の責任について

(一)  《証拠省略》によれば、幹夫は、昭和五一年一〇月ころから被告鄭に雇用され鉄骨工として働いていたが、昭和五二年三月ころから本件海水浴場の海の家「藤の家」の鉄骨組立、設備の準備、開業の届出等の仕事に従事し、同年七月一七日の海開き後は「藤の家」の営業の手伝いをするとともに蛤の採取等にも従事していたことが認められ、右認定を左右する証拠はない。

(二)  ところで、雇用主は雇用契約の附随的義務として労働者が労務に服する過程において生命、健康等を損うことがないよう作業環境等の安全について配慮すべき義務を有するものと解される。

被告鄭が幹夫にさせていた蛤の採取は海中で行うものであり、海に入ることは水泳の未熟な者にとっては危険の伴うものであるから、雇用主としては、まずこのような仕事に従事させる者が水泳に熟達しているかどうかを確認し、この条件を備えた者にさせることが必要であることは当然である。そして、水泳に熟達した者であっても、海流、天候の状況等海に入ることが危険と考えられる特別の事情がある場合には、海に入ることを中止させあるいはこれを調査して格別の注意を与える等右特別の事情に応じて労働者の安全をはかるべき義務があるものというべきである。しかし、水泳の熟達者であり通常の判断能力を有する者であれば容易に避けることができると認められるような障害については、その存在を調査して従業員に注意する等の特段の配慮まですべき義務はないものと解するのが相当である。そして、不法行為法上の注意義務についてもまた、右の程度を出ないものと解するのが相当である。

(三)  前記一認定の事実によれば幹夫は水泳に熟達していたものであり、また、通常の判断能力は備えていたものと推認されるし、更に、《証拠省略》によれば事故当時は晴天で海も静かであったと認められる。

ところで、前記認定の事実によれば、本件海水浴場のいわゆる「うたり」は、九十九里海岸特有の潮流により、発生するもので、時に深さ二メートルにも達するものではあるが、一般の海水浴客が一応安全に泳ぐことができるものとして設定された区域内にあり、その幅は通常約三〇メートル位であって、水泳に熟達し通常の判断力を有する者であれば容易に泳ぎ渡ることのできる箇所と認められる(亡幹夫とともに蛤の採取に海に入った「藤の家」の海水浴客も容易にこれを泳ぎ渡って陸に上ったものと推認される)ものであるから、水泳の熟達者で通常の判断力を有する者にとって特に危険な障害となるものとは解されない。したがって、被告鄭が「うたり」の存在場所を調査して幹夫に注意をうながさなかったとしても、これをもって雇用契約上又は不法行為法上の義務に違背したものといえないと解するのが相当である。

(四)  そうすると、被告鄭が「うたり」の位置を調査して幹夫に注意をうながすべき義務に違反したことを前提とする原告の主張は理由がないものというべきである(仮に、被告鄭に右のような「うたり」の位置について調査し幹夫に注意をうながすべき義務があるとしても、前記認定の事実によれば、幹夫は、海開き後蛤の採取に従事していたのであり、本件事故当日も蛤採取の場所に行くにあたって、ロープ沿いではあるが、「うたり」が存在する箇所を越えて沖合の浅瀬に行ったことが明らかであり、また、同人は突然背の立たない「うたり」の深みに落ち込んだものではなく、腰位の深さの箇所から首位の深さの箇所に移って海中の深さの変化に気づいていたものと考えられるのであって、当然「うたり」の部分の存在と位置とを知っていたものと推認されるのであるから、被告鄭が「うたり」の位置を調査し幹夫に注意をうながさなかったことと幹夫の死亡との間には、相当因果関係がなかったものというべきである。)。

(五)  その他被告鄭が亡幹夫に対する雇主としての安全配慮義務に違背し又は不法行為法上の注意義務に違背したことについては、原告において具体的に主張、立証しないところである。

(六)  したがって、その余の点について判断するまでもなく、被告鄭は、亡幹夫の死亡事故について損害賠償の責任を負わないものというべきである。

三  被告光町の責任について

(一)  被告光町が本件海水浴場の開設期間中監視所を三か所設置し、五名の監視員を雇い、海水浴客その他入水者の事故発生防止及び安全確保にあたっていたことは当事者間に争いがない。

《証拠省略》によれば右監視所は、本件海水浴場の約二〇〇メートルの間の砂浜に約六、七〇メートルの間隔を置いて設置されていたこと、監視員は通常真中の監視所に一名両端の監視所に各二名が配置されていたこと、本件事故発生当時海側から見て左側(南側)と真中の監視所の監視員三名は昼食時で海中に海水浴客が少くなったのをみはからって監視所を離れ海の家で昼食をとろうとしており、右側の監視所のみに二名の監視員が詰めて監視にあたっていたこと及び本件事故が起きた地点は、真中の監視所附近の海岸から沖合約三〇メートル位の地点であったことが認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。

ところで、地方公共団体は住民及び滞在者の福祉を増進しその安全を保持する公益上の権限と責務を有し、この見地に立って被告光町は本件海水浴場の利用者等に対する便宜供与としてその安全確保のため監視所を設け監視員を雇い監視にあたらせていたものと解されるのであるが、本件事故の発生地点から考えて、本件事故当時真中の監視所に監視員がいたとすれば、本件事故を発見しこれを防止することができたのではないかとも考えられないわけではない。しかし、本件事故発生当時、監視員は全員監視所を離れていたわけではなく、昼食時で海水浴客が少なくなったのをみはからって交替で昼食をとるため三人は監視所を離れていたが二人は監視にあたっていたというのであり、当時の海水浴客の状況からすればこれをもって直ちに監視態勢の不備ないし監視員の職務怠慢ということはできない。そして、《証拠省略》によれば、海で泳いでいる者が溺れ救助を求めて浮き沈みをしているときは容易にこれを発見することができるが、急速に水没して浮かび上らないときには必ずしもその発見は容易でないことが認められるところ、前記一認定の事実によれば、本件事故発生の直前、亡幹夫は波をかぶったときには頭が水中に没する状態になっていたが救助を求めていた様子はなく、附近の中学生がわずかの間目を離していたうちに完全に水中に没して再び浮き上らなかったものと認められるから、たとえ真中の監視所に監視員がいたとしても通常の注意力をもって幹夫の右水没を発見することができたかどうかはかなり疑わしく、事故発生当時監視にあたっていた右側の監視所の監視員がこれを発見することができなかったのもまた無理からぬところと考えられる。被告光町が監視所を設け監視員を雇って監視にあたらせていたことが前記のように地方公共団体としての公益的な見地からの便宜供与としてのものであり(この点で対価を得て営利的に行われているプール営業における監視とはややその性質を異にするものと考えられる。)、幹夫の水没の状況が前記のようなものであったことを考慮すると、監視員が本件事故発生に気づかなかったことをもって、直ちに過失があるものと断定することは必ずしも相当でないというべきである(のみならず、溺れている者が救助を求めて浮き沈みを繰り返している場合には救助にあたる者がその位置を確認するのが容易なため比較的救助し易すいが、水中に没してその姿を確認することができない場合には水没地点のおよその見当をつけて探さざるをえないため速やかに発見することが困難なことが多いことは経験則に照らし明らかなところであり、本件においても、幹夫の姿を見失った中学生が直ちにこれを浜の監視員に急報し監視員が即刻救助に赴いて捜索にあたったにもかかわらず容易に幹夫を発見することができなかった事実に照らすと、仮に監視員が幹夫の水没に気づいて直ちに救助に向ったとしても前記の幹夫の水没の状況からみて水中で容易にこれを発見することができたかどうかはかなり疑わしく、監視員が本件事故発生に気づかなかったことと幹夫の死亡との間に相当因果関係を認めることができるかどうかも疑問である。)。

したがって、被告光町の雇用する監視員の監視の過失を理由とする原告の請求はその余の点について判断するまでもなく失当である。

(二)  《証拠省略》によれば、同人は本件事故発生の当日の昼近く昼食をとるため監視所を下りて水際で体を洗っていた際、幹夫が「蛤カッター」を持って海に入ろうとしていたのに出合ったが同人が酒を飲んでいる様子であり海中で「蛤カッター」の重みで転倒する危険があると判断して、「蛤カッター」を持って海に入ってはいけないと注意したところ、幹夫は、これを持たずに仲村の指示に従ってブイ・ロープ沿いに瀬ぶみをしながら沖へ向ったことが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。そして、《証拠省略》によると、「蛤カッター」は蛤採取を職業とする者でも必ずしも全部がこれを持って海に入るものではなく、素人ではこれを使いこなすことが困難なものであることが認められ、したがって、監視員の仲村が酒を飲んでいる様子の幹夫に対し「蛤カッター」を持って海に入ることをやめるよう注意したのはむしろ適切な措置であったというべきであり、これをもって違法であり監視員に故意又は過失があるということはできない。

したがって、監視員が「蛤カッター」を持って海に入ることを制止したことが違法であり故意又は過失があることを前提とする原告の請求は、その余の点について判断するまでもなく失当である。

(三)  次に、前記一認定の事実によれば、本件海水浴場には、海岸から約一〇メートル位の沖合のところから「うたり」と称される幅三〇メートル位の深くなった部分があり、《証拠省略》によれば、本件事故当時本件海水浴場に右「うたり」の存在を示す標識はなかったものと認められる。

しかしながら、「うたり」が存在する場所に近づくのは水泳にある程度自信がある者と考えられ、その深さはときに二メートルを超えることがあるとしてもその幅からみて水泳の熟達者にとって容易に泳ぎ渡ることが可能なもので一般の海水浴場として水泳の熟達者にとって特に危険な箇所とまでいうことはできないし、《証拠省略》により認められる同様の「うたり」が生ずる他の九十九里海岸の海水浴場でも「うたり」の存在を示す標識のある所はなかったこと、また、「うたり」は一日のうちでもその場所が必ずしも一定せずその場所を示すことは容易でなく、もしこれを示すとすれば、その移動に応じて標識をも絶えず移動しなければかえって泳者を誤らせるおそれもないではないこと等を考慮すると、本件海水浴場の管理の任にあたっていた被告光町の職員が「うたり」の存在を示す標識を設置しなかったことをもって直ちに違法な措置であったということは相当でない(のみならず、前記一認定の事実及び弁論の全趣旨によれば、幹夫は、海開き後蛤採取に従事していたものであって、本件事故発生当日もロープ沿いではあるが蛤採取の場所まで「うたり」が存在する箇所を越えて行ったことが明らかであり、また、突然背の立たない「うたり」の深みに落ち込んだものではなく腰位の深さから首位の深さの箇所に移って深さの変化に気づいていたものと考えられるのであって、当然「うたり」の部分の存在とその位置とを知っていたものと推認されるのであるから、光町の職員が「うたり」の存在場所を示す標識を設置しなかったことと幹夫の死亡事故との間には相当因果関係がないものというべきである。)。

したがって、光町の職員が「うたり」の存在場所を明らかにする標識を設置しないことが違法であることを前提とする原告の請求も、その余の点について判断するまでもなく理由がない。

四  結論

そうすると、原告の本訴請求はいずれも理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 越山安久)

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